8月22日、明日から27日の日程で実施される「平成30年度 北方四島交流事業」の参加受付のため根室市に入った。
23日、北海道立北方四島交流センターで開催された結団式・事前研修会に参加した。
写真は鳥取民会議から参加された三朝町議会の吉田議員だが、偶然にも同じ道明という名前で縁を感じながら机を並べた。
続いて事前研修会となり、慶應義塾大学総合政策学部の廣瀬陽子教授による、「北方領土~ロシアの領土問題と比較しつつ」の演題で講演が行われた
次に、色丹島出身の得能宏氏による、「元島民が語る北方領土」の演題で講和が行われ、ロシア軍に島を追われた惨状が生々しく語られた。
その後、文化交流について意見交換やロシア語講座が行われ事前研修会が終了した。
2015年より、北方領土返還関係のイベントに登場している着ぐるみの「エリカ」ちゃんは、 北方領土の周辺海域で生息する海鳥で、名前はアイヌ語で、「くちばしが美しい」を意味する鳥のエトピリカに由来しており、北方四島交流事業で使用される船名にもなっている。
根室港で出港を待つ「えとぴりか号」の前で、講話を頂いた得能氏の見送りを受けた。
出発式の関係者の見送りを受け、国後島古釜布湾に向けて「えとぴりか号」が出港した。
台風20号の影響で揺れが予想される中、乗船すると船内での諸注意が行われ、割り振られた4人部屋で就寝した。
安倍総理とエリツィン大統領の2ショットTシャツを着込み歓迎してくれた。
私達の班は、古釜布湾近郊の景勝地、「ろうそく岩」を視察し、その後「友好の家」に戻り昼食をとった。
午後からも2班に分かれ、私達は初めに近年新築された「命をたまう至聖三者」教会を視察した。
アレクサンドル神父から、国後島における布教活動の歴史と協会建設に至る経緯を伺った。
次に、島唯一の近代的なスポーツ健康施設「アファリーナ」を視察した。
モノストゥルスキー所長との一枚。
日本のジムでもお馴染みの器具が並んでいた。
25mの温水プール。
次に、新設された「ソルヌィシコこども園」を視察した。
この地で亡くなった御霊に対し哀悼の誠を捧げた。
古釜布で唯一の商店街を視察し日程を終了した。
島にはホテル等の宿泊施設が無いため、「友好の家」がビザ無し交流の実質的な宿泊施設となっている。
左側の上段が私の寝床となった。
25日、博物館の視察で国後島の2日目の日程が始まった。
職員のヴェロニアさんから国後島の動植物の生態や島の歴史について説明を受けたが、改めて掲示されている地図を見ると、北方四島を含む千島列島がロシア領として色分けされており、両国の立場の違いが鮮明となっていた。
第二次世界大戦以降のロシア全土からの移住の歴史について説明を受けたが、その陰で島を追われた日本人の惨禍を思わずにはいられなかった。
次に会場を移し国後島民との住民交流会が開催された。]
住民交流会では、山梨県民会議の神官による雅楽の演奏が行われた。
続いて裏千家茶道の披露があり、雅楽演奏と茶道の体験が行われた。
和菓子と抹茶が振舞われたが、茶道の作法に戸惑いながらも味は好評だった。
ちぎり絵体験では富士山が絵の題材となった。
この度の交流事業に参加された千島歯舞諸島居住者連盟の元島民の山口さんから、9歳で終戦を迎え、それと同時に進軍した旧ソ連軍から島を追われた惨状を聞いた。
次に、山梨県受入事業のスライド上映と参加者の感想が述べられ住民交流会が終了した。
友好の家で昼食を取り、午後からはホームビジットが行われ、私のグループは国家公務員の自宅を訪問した。
ウラジミロヴィッチ氏は資源保護を所管する部署の責任者で、妻は元マスコミ関係の仕事で英語が堪能であり、ロシア語通訳が居ない間も辛うじて意思疎通が出来た。
ウラジミロヴィッチ氏は登山家で世界7大陸の最高峰を全て制覇しており、書斎には登頂したエベレストの写真が飾ってあった。
眼下に海が広がる一戸建て住宅で、一般庶民との格差を感じた。
子どもは3人で身振り手振りで私たちを歓迎してくれた。
お互いに用意したプレゼントを交換し、和やかな内にホームビジットを終え「友好の家」に帰った。
「友好の家」では夕食交流会が開催され、南クリル地区議会のボンダレフ議長他の議会関係者が参加した。
夕食交流会の終了後、港へ移動し、「えとぴりか号」に乗り込み次の目的地、色丹島の穴潤湾沖に向かい、その夜は船内泊となった。
26日、船内で朝5時からの朝食を済ませロシア当局の審査を受けた後、穴潤港のバースに接岸し上陸した。
色丹島内を移動するため用意されたトラックバスだが、軍車両を転用したものと思われ運転手も007に出てくるロシア人そのものだった。
最初に、港湾内に整備中のロシア系資本の水産加工場、「クリリスキー・ルィバク社」のクラボザボツク工場を視察し、マズール工場長から整備概要の説明を受けた。
タラやサケのフィレを生産する工場で、世界基準の衛生管理を実施し、当面はロシア国内に向けて販売するとの事だった。
次に文化会館に移動して、行政府訪問と住民交流会に参加した。
文化会館の玄関では民族衣装の少女がパンと塩の歓迎儀式で出迎えてくれた。
初めに、山田団長と色丹島担当のウーソフ南クリル地区副行政長が挨拶に立ち、その後、ウーソフ氏との質疑応答と記念品交換が行われた。
質疑応答で、「日ソ共同宣言では平和条約締結の際には色丹島を引き渡すとあるが」との同行記者の質問に対し、「交流の場に相応しくない質問だ」とウーソフ氏は不快感を露わにした。
初めに、国後島と同様に神官による雅楽の演奏が披露と体験が行われた。
続いて、裏千家茶道の披露と体験、ちぎり絵の贈呈が行われた。
ロシア側からは色丹島民による歌と踊りが披露された。
質疑応答では険しい表情を見せたウーソフ氏だが、プライベートに話を転じると、3人目の妻だと携帯の写真を見せてくれた。
穴潤展望台から眺めた港の様子。
穴潤展望台の縁結びスポットで神官との記念写真。
穴潤初等中学校。
円形の建物が近年建設された島で唯一の総合病院。
島で唯一のレストラン、「インペリアル」で昼食をとった。
斜古丹日本人墓地に参拝し慰霊祭を行った。
台風の影響で冷たい雨となり、吹きさらしの小高い丘は一段と寒く感じた。
出発前の事前研修会で講師を務めた元島民の得能氏の墓にも手を合わせ、彼との約束を果たした。
色丹島民が海水浴を楽しむ景勝地の「カゲノマ」の海岸だが、水温は冷たく日本の感覚とは程遠いものだった。
「カゲノマ」海岸は水質が良いため、穴潤湾の水産加工場に海水を汲み上げ送水するポンプ場。
廃墟と思うほど老朽化していたが、現役で稼働していた。
川の対岸が日本人の集落があった場所だと聞いた。
昼食をとった会場で夕食交流会が開催され、ウーソフ氏を始めとする色丹島関係者との会食を行った。
同じテーブルのOBと現役の警察官だが、同じセルゲイと言う名前で、挟まれて写真を撮ると願い事が叶うとのロシアの言い伝えを聞いた。
住民交流会で民族衣装を身にまとい歌と踊りを披露した演芸担当者。
演芸担当者の指導を受けながら、ロシア民謡と踊りで会場が盛り上がった。
夕食交流会の終了後、穴潤港へ移動して「えとぴりか号」に乗船し古釜布湾に向けて出港した。
見送りのロシア関係者は少数で、近年の北方領土へのロシア政府の取り組みが、如実に反映されていると感じた。
27日、朝5時からの朝食後、ロシア当局の出域手続きを済ませ根室港に向け出港した。
船内で解団式が行われたが、山田団長の「5年前の訪問時の対応と様変わりした」との感想が心に残った。
帰路の途中、居住していた歯舞群島が見えてくると身を乗り出し見入る山口さん。
訪問する度にロシア化される故郷を見るのは忍びないとし、今回を最後にすると呟いた。
根室半島の納沙布岬の灯台が見えて来たが、ロシアが実効支配する歯舞群島の貝殻島までは僅か3~4キロで、一番近くて一番遠い我が国の領土だと実感した。
船内の相部屋だった鳥取県民会議の西村氏、吉田氏と熊本県民会議の三宅氏。
12:00予定通り根室港に入港し、関係者の出迎えを受けながら下船し、バスで千島会館に移動して全日程を終了した。
その日には米子に帰れないため、宿泊先の東京へとJRとバスを乗り継ぎ釧路空港から羽田空港に移動したが、空港近辺には雷注意報が発令されており、無事着陸したにもかかわらず1時間以上機内に缶詰になる落ちが付いた。
23日、北海道立北方四島交流センターで開催された結団式・事前研修会に参加した。
写真は鳥取民会議から参加された三朝町議会の吉田議員だが、偶然にも同じ道明という名前で縁を感じながら机を並べた。
北方領土問題対策協会の諸星理事長の主催者挨拶で結団式が始まり、続いて長谷川根室市長が来賓挨拶を行い、訪問団の山田団長が挨拶と団員紹介を行い結団式を終えた。
続いて事前研修会となり、慶應義塾大学総合政策学部の廣瀬陽子教授による、「北方領土~ロシアの領土問題と比較しつつ」の演題で講演が行われた
次に、色丹島出身の得能宏氏による、「元島民が語る北方領土」の演題で講和が行われ、ロシア軍に島を追われた惨状が生々しく語られた。
その後、文化交流について意見交換やロシア語講座が行われ事前研修会が終了した。
2015年より、北方領土返還関係のイベントに登場している着ぐるみの「エリカ」ちゃんは、 北方領土の周辺海域で生息する海鳥で、名前はアイヌ語で、「くちばしが美しい」を意味する鳥のエトピリカに由来しており、北方四島交流事業で使用される船名にもなっている。
根室港で出港を待つ「えとぴりか号」の前で、講話を頂いた得能氏の見送りを受けた。
出発式の関係者の見送りを受け、国後島古釜布湾に向けて「えとぴりか号」が出港した。
台風20号の影響で揺れが予想される中、乗船すると船内での諸注意が行われ、割り振られた4人部屋で就寝した。
24日、古釜布湾沖で一夜を過ごし、夜明けと共に古釜布湾を目指し錨を上げた。
北方四島の時間は2時間早く、上陸後の日程に合わせて朝食は東京時間の5時から行った。
古釜布港には「えとぴりか号」が接岸できるバースが無いため、ロシア当局のはしけの到着を待ち7:10から船内で入域手続きを行った。
ロシア当局やはしけ等の撮影は禁止されており、写真は入域手続き後、私が乗船した第二便目のはしけ内部の様子である。
上陸後、古釜布湾近くにある「友好の家」に到着し、「地区行政府・議会」と「ろうそく岩」コースの2班に分かれて視察を行った。
「友好の家」は、北海道選出の鈴木宗男衆議院議員の尽力によって建設され「ムネオハウス」で一世を風靡したが、建設に係る利権疑惑で公設秘書や地元建設業者が有罪となり、鈴木氏本人も有罪が確定し、議員辞職に追い込まれた施設でもある。
「友好の家」に住み付いている猫が、61名の訪問団を出迎えてくれた。
国後島のアテンドを受け持つロシア人担当者。
北方四島の時間は2時間早く、上陸後の日程に合わせて朝食は東京時間の5時から行った。
古釜布港には「えとぴりか号」が接岸できるバースが無いため、ロシア当局のはしけの到着を待ち7:10から船内で入域手続きを行った。
ロシア当局やはしけ等の撮影は禁止されており、写真は入域手続き後、私が乗船した第二便目のはしけ内部の様子である。
上陸後、古釜布湾近くにある「友好の家」に到着し、「地区行政府・議会」と「ろうそく岩」コースの2班に分かれて視察を行った。
「友好の家」は、北海道選出の鈴木宗男衆議院議員の尽力によって建設され「ムネオハウス」で一世を風靡したが、建設に係る利権疑惑で公設秘書や地元建設業者が有罪となり、鈴木氏本人も有罪が確定し、議員辞職に追い込まれた施設でもある。
「友好の家」に住み付いている猫が、61名の訪問団を出迎えてくれた。
国後島のアテンドを受け持つロシア人担当者。
安倍総理とエリツィン大統領の2ショットTシャツを着込み歓迎してくれた。
私達の班は、古釜布湾近郊の景勝地、「ろうそく岩」を視察し、その後「友好の家」に戻り昼食をとった。
午後からも2班に分かれ、私達は初めに近年新築された「命をたまう至聖三者」教会を視察した。
アレクサンドル神父から、国後島における布教活動の歴史と協会建設に至る経緯を伺った。
次に、島唯一の近代的なスポーツ健康施設「アファリーナ」を視察した。
モノストゥルスキー所長との一枚。
日本のジムでもお馴染みの器具が並んでいた。
25mの温水プール。
次に、新設された「ソルヌィシコこども園」を視察した。
ヴェトロア園長から、こども園の概要と人口増加による待機児童の現状を聞いたが、その多くが軍人の駐留によるものだと推測される。
二人の園児が踊りを披露して私たちを歓迎してくれた。
寒冷地のため室内の温水プールが完備されていた。
園内には監視カメラ室もあり設備は充実していた。
次に地区図書館を視察した。
ソジノア館長から図書館の概要と日本の蔵書について説明を聞いた。
最後に、2班が合流して古釜布日本人墓地を訪ね、神官による慰霊祭が行われた。
二人の園児が踊りを披露して私たちを歓迎してくれた。
寒冷地のため室内の温水プールが完備されていた。
園内には監視カメラ室もあり設備は充実していた。
次に地区図書館を視察した。
ソジノア館長から図書館の概要と日本の蔵書について説明を聞いた。
最後に、2班が合流して古釜布日本人墓地を訪ね、神官による慰霊祭が行われた。
この地で亡くなった御霊に対し哀悼の誠を捧げた。
古釜布で唯一の商店街を視察し日程を終了した。
島にはホテル等の宿泊施設が無いため、「友好の家」がビザ無し交流の実質的な宿泊施設となっている。
左側の上段が私の寝床となった。
25日、博物館の視察で国後島の2日目の日程が始まった。
職員のヴェロニアさんから国後島の動植物の生態や島の歴史について説明を受けたが、改めて掲示されている地図を見ると、北方四島を含む千島列島がロシア領として色分けされており、両国の立場の違いが鮮明となっていた。
第二次世界大戦以降のロシア全土からの移住の歴史について説明を受けたが、その陰で島を追われた日本人の惨禍を思わずにはいられなかった。
次に会場を移し国後島民との住民交流会が開催された。]
住民交流会では、山梨県民会議の神官による雅楽の演奏が行われた。
続いて裏千家茶道の披露があり、雅楽演奏と茶道の体験が行われた。
和菓子と抹茶が振舞われたが、茶道の作法に戸惑いながらも味は好評だった。
ちぎり絵体験では富士山が絵の題材となった。
この度の交流事業に参加された千島歯舞諸島居住者連盟の元島民の山口さんから、9歳で終戦を迎え、それと同時に進軍した旧ソ連軍から島を追われた惨状を聞いた。
次に、山梨県受入事業のスライド上映と参加者の感想が述べられ住民交流会が終了した。
友好の家で昼食を取り、午後からはホームビジットが行われ、私のグループは国家公務員の自宅を訪問した。
ウラジミロヴィッチ氏は資源保護を所管する部署の責任者で、妻は元マスコミ関係の仕事で英語が堪能であり、ロシア語通訳が居ない間も辛うじて意思疎通が出来た。
ウラジミロヴィッチ氏は登山家で世界7大陸の最高峰を全て制覇しており、書斎には登頂したエベレストの写真が飾ってあった。
眼下に海が広がる一戸建て住宅で、一般庶民との格差を感じた。
子どもは3人で身振り手振りで私たちを歓迎してくれた。
お互いに用意したプレゼントを交換し、和やかな内にホームビジットを終え「友好の家」に帰った。
「友好の家」では夕食交流会が開催され、南クリル地区議会のボンダレフ議長他の議会関係者が参加した。
夕食交流会の終了後、港へ移動し、「えとぴりか号」に乗り込み次の目的地、色丹島の穴潤湾沖に向かい、その夜は船内泊となった。
26日、船内で朝5時からの朝食を済ませロシア当局の審査を受けた後、穴潤港のバースに接岸し上陸した。
色丹島内を移動するため用意されたトラックバスだが、軍車両を転用したものと思われ運転手も007に出てくるロシア人そのものだった。
最初に、港湾内に整備中のロシア系資本の水産加工場、「クリリスキー・ルィバク社」のクラボザボツク工場を視察し、マズール工場長から整備概要の説明を受けた。
タラやサケのフィレを生産する工場で、世界基準の衛生管理を実施し、当面はロシア国内に向けて販売するとの事だった。
次に文化会館に移動して、行政府訪問と住民交流会に参加した。
文化会館の玄関では民族衣装の少女がパンと塩の歓迎儀式で出迎えてくれた。
初めに、山田団長と色丹島担当のウーソフ南クリル地区副行政長が挨拶に立ち、その後、ウーソフ氏との質疑応答と記念品交換が行われた。
質疑応答で、「日ソ共同宣言では平和条約締結の際には色丹島を引き渡すとあるが」との同行記者の質問に対し、「交流の場に相応しくない質問だ」とウーソフ氏は不快感を露わにした。
初めに、国後島と同様に神官による雅楽の演奏が披露と体験が行われた。
続いて、裏千家茶道の披露と体験、ちぎり絵の贈呈が行われた。
ロシア側からは色丹島民による歌と踊りが披露された。
質疑応答では険しい表情を見せたウーソフ氏だが、プライベートに話を転じると、3人目の妻だと携帯の写真を見せてくれた。
穴潤展望台から眺めた港の様子。
穴潤展望台の縁結びスポットで神官との記念写真。
穴潤初等中学校。
円形の建物が近年建設された島で唯一の総合病院。
島で唯一のレストラン、「インペリアル」で昼食をとった。
斜古丹日本人墓地に参拝し慰霊祭を行った。
台風の影響で冷たい雨となり、吹きさらしの小高い丘は一段と寒く感じた。
出発前の事前研修会で講師を務めた元島民の得能氏の墓にも手を合わせ、彼との約束を果たした。
色丹島民が海水浴を楽しむ景勝地の「カゲノマ」の海岸だが、水温は冷たく日本の感覚とは程遠いものだった。
「カゲノマ」海岸は水質が良いため、穴潤湾の水産加工場に海水を汲み上げ送水するポンプ場。
廃墟と思うほど老朽化していたが、現役で稼働していた。
川の対岸が日本人の集落があった場所だと聞いた。
昼食をとった会場で夕食交流会が開催され、ウーソフ氏を始めとする色丹島関係者との会食を行った。
同じテーブルのOBと現役の警察官だが、同じセルゲイと言う名前で、挟まれて写真を撮ると願い事が叶うとのロシアの言い伝えを聞いた。
住民交流会で民族衣装を身にまとい歌と踊りを披露した演芸担当者。
演芸担当者の指導を受けながら、ロシア民謡と踊りで会場が盛り上がった。
夕食交流会の終了後、穴潤港へ移動して「えとぴりか号」に乗船し古釜布湾に向けて出港した。
見送りのロシア関係者は少数で、近年の北方領土へのロシア政府の取り組みが、如実に反映されていると感じた。
27日、朝5時からの朝食後、ロシア当局の出域手続きを済ませ根室港に向け出港した。
船内で解団式が行われたが、山田団長の「5年前の訪問時の対応と様変わりした」との感想が心に残った。
帰路の途中、居住していた歯舞群島が見えてくると身を乗り出し見入る山口さん。
訪問する度にロシア化される故郷を見るのは忍びないとし、今回を最後にすると呟いた。
根室半島の納沙布岬の灯台が見えて来たが、ロシアが実効支配する歯舞群島の貝殻島までは僅か3~4キロで、一番近くて一番遠い我が国の領土だと実感した。
船内の相部屋だった鳥取県民会議の西村氏、吉田氏と熊本県民会議の三宅氏。
12:00予定通り根室港に入港し、関係者の出迎えを受けながら下船し、バスで千島会館に移動して全日程を終了した。
その日には米子に帰れないため、宿泊先の東京へとJRとバスを乗り継ぎ釧路空港から羽田空港に移動したが、空港近辺には雷注意報が発令されており、無事着陸したにもかかわらず1時間以上機内に缶詰になる落ちが付いた。