豪円山を出発し、下山神社へ向かう古道を散策しながら歩いた。
古道の途中には名も無い僧兵の塚があり、傍らには大山寺信仰の礎となった地蔵菩薩が佇んでいた。
全国最大級の権現造りで国の重要文化財にもなっている、大神山神社奥宮前の石段で集合写真を撮ったが、行き交う外国人観光客の多さに驚いた。
西楽院は、慶長年代大山寺の本坊で間口24間の壮大な建物であったが、明治8年の大山寺寺号の廃絶により四散した。
隆盛を極めた往時の姿を思い描きながら、延命長寿の御神水を頂いて本坊西楽院跡で暫しの休憩を取った。
日本一の長さを誇る石畳の参道。
巨大岩石を半分に切ったかのような「金門」は、僧兵たちが修行に励んだ信仰の聖地。
約500年前、大山寺の3000人の僧兵たちがこの石を持ってお互いの力を競ったと言われる「僧兵の力石」。
この他、古道沿いに点在する地蔵を見ながら大山寺の開基、金蓮上人が寂静された寂静山に上り、僧兵の武練の地など中世以前の寺坊跡を眺めた。
約2時間の大山寺散策を終え、出発地の豪円山に戻り、名物のジンギスカン鍋で昼食を取った。
標高892mの豪円山は、今でも北側の斜面の一部に滝の流れが残っているが、古くは鳴滝山と呼ばれており、滝の打つ爆音が山野に鳴り響いたとの事である。
昼食後、豪円山に登り、頂上付近の大山寺座主「豪円僧正」の第2世から第8世までの世代墓を拝んだ。
登山道の斜面には笹百合の花が咲いており、傍によると清々しい香りを放っていた。
最後に頂上に鎮座し豪円山の由来ともなった、大山寺中興の祖、「豪円僧正」の墓から米子を見下ろし、研修会の日程を終えた。
豪円僧正は大山寺の領地で米子城主中村一忠と争い、没するにあたり「米子城を俯瞰する地に於いてせよ、吾必ず米子城の没落を見せよう」との遺言を残したとのことである。
その後、中村家が断絶し米子城は風呂の薪にされ消滅したが、未だに地元の良さや魅力を知ろうとしない風潮に豪円僧正の真の呪縛を感じ、この地の歴史や文化について自身の無知を猛省した。